所長のひとりごと。バックナンバー
第21回 鎮守府八幡宮「加勢祭」
2022-02-16


▲鎮守府八幡宮の蘇民ぼう
胆沢城跡の北東(鬼門)に位置する鎮守府八幡宮に、蘇民行事の加勢祭が伝わっています。旧正月7日の夜、八幡宮に籠った氏子は、翌朝、右の疫病除けの護符「蘇民ぼう」を持ち帰って家の門戸に貼り、疫病が入るのを防ぎます。
「蘇民ぼう」は、慈覚大師円仁が所持していた護符で、八幡宮の心経会(しんぎょうえ、般若心経を読む法会)の際、庶民から疫病の災いを除くために、八幡神に捧げて祈願したものと伝えられています。
また、平安時代前期の歴史書である『日本三代実録』には、円仁がかつて体を悪くした時、夢の中で天から甜瓜(まくわうり)のような薬を授かったというエピソードが紹介されているのですが(貞観6年(864)正月14日辛丑条、円仁卒伝)、「蘇民ぼう」はこの話に出てくる甜瓜の形に葉と花を添え、薬神の姿にしたものだともいわれています。
加勢祭の様子は、八幡村肝入の太郎兵衛が安永5年(1776)に仙台藩に提出した『風土記御用書出』に、次のようにみえます。「当社毎年正月7日の夜、男女参籠のおり、それぞれ料紙を持参する。別当は蘇民ぼうというものを料紙に摺って神殿へ納め置き、翌日8日にその御守札を持ち帰る。門戸に貼付けておけば、疫病が絶対に入らない。このため当村には昔から疫病を患う者がないと伝わっている。今まで疫病を入れたことがない。」
詳細は分かりませんが現在は、神官が「八幡の斎垣の内に弓張りて 向う矢先に悪魔来たらず」「八幡の斎垣の内の八重桜 花が散るとも氏子もらさじ」と唱え、直垂姿の男性2人が坂上田村麻呂の宝剣と鏑矢をかざし、氏子が足を踏み鳴らして邪気をはらう行事が、旧正月8日に行われています。重要な役割を果たしている宝剣と鏑矢に関して『吾妻鏡』文治5年(1189)9月21日条に「(鎮守府八幡宮に)彼の卿(=田村麻呂)が帯びるところの弓箭并に鞭等を納め置く宝蔵在り」とみえ、加勢祭には軍神となった田村麻呂の霊力により疫病を払う道具として登場させたと思われます。

加勢祭(参列者が手を叩き足を踏みならす)
ところで、鎮守府八幡宮の蘇民行事は、奥州市内やその周辺で伝承されている、裸の男たちが蘇民袋を争奪する蘇民祭と、内容が非常に異なります。それだけでも興味深いのですが、裸祭りで特に有名な黒石寺と鎮守府八幡宮には、蘇民行事とは対照的に、似たような慣習も伝わっています。それは鶏肉を食べてはならないというタブーです。
鎮守府八幡宮の伝承について、先に紹介した『風土記御用書出』の続きで、太郎兵衛は次のように語ります。「当村の者は、男女児童にいたるまで、昔から鳥獣の類を決して食べない。現在、他の村に住んでいる当村出身者であっても、鶏肉を食べれば口の中が腫れ、または口が歪んでしまう。その時は当村八幡社の御手洗いで口中を洗い清めるか、その場で八幡宮を念ずればもとにもどる。」
一方の黒石寺では、鶏肉を食べても、さらには鶏を飼ってもいけない理由として、こんな話が伝わっていました(末武保政『黒石寺蘇民祭昭和四拾六年』水沢史談会、昭和46年)。「延暦年間にこの寺が焼けて飛騨の匠が来て再建した時の話でね、田村麿将軍は飛騨の工匠にこれを一昼夜で建てなさいと命令した。工匠はむかしの建物だから土台石の上にずん堂だてに建てるのだからこれを一夜で建てますといってはじめたんだが、まだ完成しないうちに、夜中に一番鶏がないたそうだもね。それがあまのじゃくだか悪路王だかの邪魔のせいだということでお薬師さん(黒石寺のご本尊)にそむいた鶏を飼わなくなったというわけなんだそうです。」
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