胆沢城造営とともに始まった鍛冶作業
2025-04-21
胆沢城が造営されると大量の鉄製品が胆沢地方に流入しました。特にも鉄製農耕具は食料増産、建築部材の加工等に大きな影響を与えたことでしょう。鉄製品は刃こぼれや折れ曲がったりして使えなくなっても「鍛冶」による修理が可能です。この「鍛冶」技術もともに胆沢地方に入りました。「鍛冶」には製品をある程度溶かすための熱が必要です。竪穴建物跡などの床面に被熱の痕跡が見つかると「炉」と判断し、鍛冶作業を推測します。もちろん周辺から鍛冶に関連する遺物等が出土していることが前提です。
胆沢城造営の初期には胆沢城内に鍛冶工房群が作られます。造営に使われる工具の修理が中心だったのでしょう。胆沢城外に鍛冶工房が出現するのは9世紀の半ばを過ぎた頃です。比較的まとまって見つかっているのは水沢真城の「林前南館遺跡」の工房群です。集落内の限られた場所に何度か建て替えられていたことから、決められた場所で鍛冶作業をしていたようです。
10世紀近くになると、胆沢若柳の「明神下遺跡」で大規模な鍛冶作業が行われます。鍛冶に関係する工房と推測した建物跡は93棟中9棟ですが、建物に炉跡が見つかったものを数えると41棟になります。41棟すべてが鍛冶に関連する建物とすれば、大規模な工房群だった可能性があります。一方、有力者によっては自分の邸宅内で鍛冶作業を行わせていたことも分かっています。水沢佐倉河の「伯済寺遺跡」は、有力官人の邸宅と考えられている遺跡です。遺跡の西側は掘立柱建物跡群を中心とする居住域で、東側は竪穴建物跡を中心とする生産域であることがわかっています。この生産域に鍛冶工房と思われる遺構が見つかっています。
胆沢城の造営のために導入された鍛冶作業は集落に技術が及びやがて大規模化していきますが、有力者は個人の持ち物として技術者を所有します。鍛冶遺構の発見例が少ないため鍛冶作業から見た社会は推測の域を出ませんが、社会の変化に連動して鍛冶技術者の移動があったことは間違いありません。
(文:センター所長 佐藤良和)
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