本文へ移動

田村麻呂の登場

延暦8年(789)の「胆沢の合戦」に大敗した政府は翌9年、直ちに第2回胆沢遠征の準備をはじめました。
第2回遠征軍の人事は、征夷大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)副将軍坂上田村麻呂らでした。
田村麻呂がエミシ問題に関わって初めて登場してきます。

このとき田村麻呂は天皇の側近として近衛少将(このえのしょうしょう)の位にありました。

延暦13年(794)正月、将軍弟麻呂は桓武天皇から節刀(せっとう)たまわり、胆沢遠征に出発しました。今回の遠征軍の実戦部隊の総指揮官は田村麻呂でした。

彼は6月、10万の遠征軍がエミシ軍に勝ったと京に報告しました。しかし、胆沢はまだ落ちません。

延暦15年(796)、前回の余韻も冷めやまぬうちに、第3回胆沢遠征計画が始まりました。
数年かけて、遠征の手はずを整えた田村麻呂は延暦20年(801)、征夷大将軍として胆沢の遠征に出発しました。
陣容は軍士4万人、軍監5人、軍曹32人と前回の半分以下に縮小されています。

胆沢のアテルイらは、これまでの戦いで大半の戦士を失い、加えて西岸一帯の荒廃は食糧難という事態を生み、エミシ戦士らは疲弊の度を増していました。
田村麻呂が編成した陣容は、すでにこのような情況を察知した上でなされたものでしょう。
TOPへ戻る