アテルイ降伏

延暦20年(801)2月、征夷大将軍坂上田村麻呂は第3回胆沢遠征に出発しました。

しかしこの間の詳しい戦闘経過は『正史』を欠き、ただ『日本紀略』9月27日条に、田村麻呂が「東賊を討伏」したとあるだけで、前回のときのような戦果も不明です。
ただし今回は、胆沢遠征に止まらず、遠く閉伊地方(今の久慈・閉伊地方)にまで軍を派遣し、一定の戦果をあげたようです。
(『日本後紀』弘仁2年12月13日条)
 

田村麻呂は翌10月、節刀を桓武天皇に返し、遠征結果を報告しますが、これで蝦夷の反乱をほぼ完全に制したという評価が与えられました。
翌年正月、田村麻呂は再度胆沢に下ってきました。
胆沢城を造るためで、あわせて諸国から浪人4,000人を胆沢城に移しました。

4月15日、胆沢城造営中の田村麻呂のところに、阿弖流為、母礼らがエミシ戦士500余人を率いて投降してきました。
巨大な胆沢城を目の前に、万策尽きたというのが実情でしょう。

7月、軍事首長2人を従えて田村麻呂は上京し、裁決は公卿(くぎょう)たちに委ねられました。

田村麻呂は2人の助命を願い出、在地の蝦夷を馴化(じゅんか)するには彼らの協力が必要なことを説きました。

しかし、公卿たちは国家に抵抗した「反乱の首謀者」という認識でしたので、願いどおり胆沢へ赦免すれば、再び反乱は必定とみて捕捉の上、河内国椙山で斬刑に処しました。

時に延暦21年(802)8月13日(旧暦)のことです。
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