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第4回 胆沢城跡歴史公園にアマビエ登場

2020-06-24
 新型コロナウイルスの一日も早い終息を願って、令和元年6月にオープンした胆沢城跡歴史公園で、復元された築地塀(ついじべい)のライトアップを利用した影絵『アマビエ』を投影しました。
築地塀南側のライトアップ。手前の光はあやめ展示会(6月27日・28日)で並んだ大行灯。
 コロナ禍の影響であやめ祭りなどのイベントが中止となりましたが、県域を越えた移動自粛が解除されたことにより胆沢城跡歴史公園でも散策する方々を少し目にします。昨年に比べればちらほらで、第二波の流行も心配され、今後が見通せない状況です。
 そんななか、復元された築地壁(ついじべい)のライトアップを利用した影絵を始めました。今回は、コロナ禍退散の想いを込めて、アマビエの彩色影絵を投影しました。午後7時30分から1時間ほどライトアップされます。  
 コロナ禍の一日も早い終息を願い、「疫病退散 急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」の投影も試みましたがうまくいきませんでした。急急如律令は、「急々に律令の如く行え」の意味で、陰陽師なども呪文の結びの言葉として唱えます。疫病に苦しめられた古代の人々と想いをひとつにする意味で、胆沢城歴史公園に、この呪文を浮かび上がらせたいと考えています。
 また、胆沢城の鬼門(北東)に現存する鎮守府八幡宮の霊力を期待し御守札「蘇民ぼう(版摺り)」の投影もやってみましたがうまくいきませんでした。御守札「蘇民ぼう」は、鎮守府八幡宮別当寺「安国寺」御開山の慈覚大師が版刻、大師が大病を患った時に夢のなかで天から送られたまくわうりの形に似た薬に葉と花を添えて「薬神の像」としたと伝わります。旧正月の8日に行われる蘇民祭の一種「加勢祭(かせさい)」で守札として配られます。
 今後もいろいろな影絵に挑戦しますので、夕涼みがてら胆沢城跡歴史公園を散策してみてください。
影絵を使って遊ぼう!
おまけ
 胆沢城跡歴史公園では、スマートフォンやタブレットでのAR体験もできます。歴史公園に隣接する奥州市埋蔵文化財調査センターでタブレットの貸出も行っています。
 胆沢城正面の南門の屋根に飾られて鬼瓦(おにがわら)です。鬼瓦は魔除けとして飾られたもので、コロナ退治や節分の豆まきでも使えます。A4版で印刷してお面にしよう。

第3回 雪形と駒形神社

2020-05-14
 今回はアテルイや坂上田村麻呂も眺めた?胆沢の雪形と延喜式内社「駒形神社」です。駒形の雪形が現れる経塚山の山頂には、駒形大明神の碑があります。
焼石連峰とEH500金太郎
焼石連峰の雪形を背景に走るJR高速貨物列車EH500金太郎
 アテルイの故郷、胆沢の地に雪形の「ハル」が現れました。奥羽山脈の焼石連峰、横岳の残雪が描いたもので、昔から田植えの季節を告げると言われています。5月いっぱい残り、胆沢城跡歴史公園からも南西方向に見えます。今から1,200年前、アテルイや坂上田村麻呂も見たかもしれません。
 
 『類聚国史』延暦21年4月15日条は、アテルイとモレが500余人を率いて降伏したことを伝えています。西暦802年の5月19日のことで、ちょうど今頃の時期にあたります。その後、アテルイとモレは焼石連峰の雪形を見納めに都へ旅立ち、西暦802年9月13日、田村麻呂の助命嘆願も虚しく河内の国で処刑されました。
 カタカナは平安時代の初期に漢文の訓点として使われだしたと言われます。文字を必要としなかったエミシ社会で、アテルイが片仮名の「ハル」を読めたとは思えませんが、経塚山に現れる雪形(駒形)などは農作業等の時期を示す自然暦だったと考えられます。

 『水沢市史6民俗』で紹介された獅子ヶ鼻岳・横岳の残雪が描く雪形を示した下図をみると、昔から牛や農具などの名前を付け農耕の目安としたことが分かります。図には示されていませんが、経塚山の「駒形」は、「ハル」が現れるころからやせ細り、次第に姿を消します。現在、経塚山東南の駒ヶ岳に駒形神社奥宮がありますが、「明治26年西山横嶽入梅成雪図」の御駒岳山頂に、延喜式内社「駒形神社」を継承する駒形神社が描かれています。
明治26年西山横嶽入梅雪ノ図(水沢市史6民俗から再掲)

 延喜式内社の駒形神社は、851年に正五位下、862年に従四位下が授けられてます(『文徳天皇実録』仁寿元年9月2日条、『三代実録』貞観4年6月18日条)。851年の記事には「神階を進む」とあり、9世紀前半代には駒形神社が存在していたものと考えられます。
 なお、862年には、陸奥鎮守府「正六位上石手堰神社」が官社(式内社)認定、黒石寺に伝わる重要文化財「木造薬師如来坐像」がつくられるなど、鎮守府胆沢城の神や仏を頼みとした政策展開が窺えそうです。鎮守府管轄下の斯波・胆沢・江刺・磐井郡内の延喜式内社は次の11社です。
 《斯波郡》 1座 志賀理和気(しかりわけの)神社
 《胆沢郡》 7座 磐(いわの)神社  駒形(こまかたの)神社  和我叡登挙(わかえとの)神社  石手堰(いわていの)神社
         胆沢川(いさわかわの)神社  止止井(とといの)神社  於呂閇志(おろへしの)神社
 《江刺郡》 1座 鎮岡(しつめおかの)神社
 《磐井郡》 2座 配志和(はいしわの)神社  儛草(まいくさの)神社
 神社の由来によれば、駒形神社は雄略天皇の時代、崇神天皇末裔の上毛野胆沢公が大日岳(現経塚山)に駒形を祀り、坂上田村麻呂が征夷後にエミシの守護神でもあった駒形神社の神格昇格を申請、その後の850年、慈覚大師が現在の駒ヶ岳山頂に社殿を建立したと伝えます。駒ヶ岳、牛形山、鷲ヶ森山とともに駒形山と総称された大日岳(現経塚山)の山頂には、「駒形大明神」の古碑が残されています。
 現在の駒形神社は、明治36年、奥州市水沢中上野の水沢公園内の塩釜神社境内に遷された社で、駒ヶ岳山頂には奥宮が祀られています。
胆沢郡延喜式内社伝承図

第2回 胆沢城に祀られた『内神(ないしん)』

2020-04-24
 今回は、胆沢城の政庁西北隅に祀られた「内神(ないしん)」を取り上げます。北東方位の鬼門が知られますが、「内神」が祀られた戌亥(いぬい)は陰陽道でいう天門の方位です。怨霊などが出入りする方角として忌む一方、祖霊神が行き来する常世の国、祝福をもたらす祖霊の方向とも言われます。エミシを養うため殺生を常とする鎮守府胆沢城では、なにを恐れ、祈ったのでしょうか。
 平成元年の発掘調査で「内神(ないしん)」の文字が書かれた一点の木簡(もっかん)が発見され、胆沢城政庁の北西隅に神殿があったことがわかりました。
 
 木簡には「射手所(いてどころ)請う飯(いい)一斗五升。右、内神に侍(じ)する射手(いて)巫蜴万呂巫(かんなぎのとかげまろ)請う。件(くだん)の如し。」と書かれています。文面の前段には射手所が飯1斗5升の支給を請求したことが記され、「右」以下の後段で巫蜴万呂を受取人としています。
 蜴万呂(とかげまろ)は、この木簡を厨(くりや)に提出、飯を受け取った後、勤務地の政庁に入り食事したことになります。城内の重要施設の政庁は門衛を配置し厳重に警備されたはずで、木簡は蜴万呂が政庁に入る許可証でもあったと考えられます。
 ところで、蜴万呂に支給された飯は1斗5升です。当時の兵士1日分の食料1升6合からすると、10日分に相当します。ただ、支給されたのは、炊飯した「ごはん」です。1度に10日分のごはんを受け取っても食べきれません。複数の兵士を代表して蜴万呂が受け取ったと考えるべきです。兵の数は、1日分だと10人、2日分の場合は5人程度が想定されます。仮に10人とした場合、軍団兵士の編成単位「火(か)」と同数で、「火」単位で政庁に詰めたようにも見えます。
 
 警備の兵を配し厳重に警備されているはずの政庁で、なぜ、蜴万呂など複数の兵を配備したのでしょうか。彼らには神殿警備のほかに、特別の任務があったと考えられます。その理由のひとつが、蜴万呂の姓「巫(かんなぎ)」です。巫は神社と深くかかわる姓とされています。巫の姓をもつ蜴万呂の配備は偶然ではなく、巫姓に重要な意味があったのではないでしょうか。巫姓の兵士は、宮城県南の名取団から派遣された兵士のなかに3名が確認できます(胆沢城跡出土漆紙文書『兵士歴名簿』)。宮城県にあった柴田郡内の兵士で、蜴万呂もその一族かもしれません。
 
 二つ目が、蜴万呂が射手であることです。木簡を発行した射手所は射手を統括する部署で、蜴万呂以外の兵も当然弓に巧みな射手です。一般の兵士ではなく弓に関係する射手を配備する必要があったと考えられます。弓に矢をつがえず弦を引き、音を鳴らす儀式が知られます。射手の蜴万呂らも、特別な儀式か日常的に行われたかわかりませんが、神殿の前で弓を鳴り響かせ邪気を祓ったことが想像できます。
 「内神」を祀った神殿は、政庁正殿北西で発見された建物が想定されます。一部が調査区の外にあるため確定できませんが、2度建替えられています。当初の建物は東西5間(約15m)、南北2間(約6.2m)の東西に長い建物です。その後、東西3間(約6.1m)、南北2間(約4.6m)の小規模な建物となり、西側の1間は廂状の施設と考えられます。この祠的な建物は、西側に位置をずらして建替えられています。
 木簡に書かれた「内神」は神様の名前ではなく、鎮守府庁のなかにある神という意味です。祀られた神の特定はできませんが、胆沢城の鬼門(北東)に位置する鎮守府八幡宮が新たな問題として登場します。八幡宮は『吾妻鏡』文治5年(1189)9月21日条に、坂上田村麻呂が征夷の時に勧請した霊廟で、宝蔵に田村麻呂の弓と鞭を納めていると記載された神社です。江戸時代の記録では、神社西側に神宮寺の『安国寺』があったとされ、薬師如来坐像も残されています。胆沢城跡の発掘調査が始まった当時から附属寺院の存在を想定していましたが、「内神」の出現により再検討が必要になっています。手がかりとなる八幡宮の発掘調査が行われていないため、何の根拠もないのですが、胆沢城廃絶に伴い「内神」が城外に遷され鎮守府八幡宮の前身となった可能性もあるかと密かに考えています。
 
※禁無断転載

第1回 古代の人々を苦しめた『疫病』

2020-03-26
 胆沢城跡で発掘された漆紙文書に、新型コロナウイルスのような流行性の悪病『疫病(えやみ)』が書かれています。今から1177年前の承和10年(843)2月26日、宮城県北にあった軍団の小田団が鎮守府胆沢城に宛てた公文書。内容は、派遣予定兵に欠員が出たため、軍団主帳(しゅちょう)の牡鹿連氏縄(おじかのむらじうじなわ)が胆沢城に出向き、事前に許可を求めたものです。伴部廣根(ともべのひろね)と宗何部刀良麿(そがべのとらまろ)が疫病にかかり派遣できなくなったことが欠員の理由で、守備兵の出発を目前にあわただしく対応したようです。
 胆沢城には、一般の兵士と勲位をもつ人から徴発された健士(けんし)がいます。一般の兵士は10日交替、廣根と刀良麿などの健士は1ヵ月交替です。健士の守備開始は3月1日、遅くとも2月晦日には胆沢城に到着する必要があります。幸い承和10年2月は大の月、文書発行の26日を含め晦日の30日まで5日、ぎりぎりの日程です。馬を利用する使者の牡鹿連氏縄と守備兵は、2月26日にあわただしく出発したものと思われます。
 
 廣根や刀良麿はどうなったのか、疫病は終息したのか。疫病に医学的対応ができない当時、巡察使の派遣や救済のために食料を支給した事例があるが、多くは仏法に救いを求める以外になかったようです。『三代実録』貞観8年(866)5月26日条に、疫病のため伊勢神宮六月祭への斎宮の参加を取りやめた記事があり、儀式などのイベント自粛も行ったようです。

 

漆紙文書(うるしがみもんじょ)
 漆紙文書はごわごわした皮のように見えますが、千年以上前の紙です。なぜ地中に残ったのでしょう。実は、乾燥やほこりを防ぐために、漆液の表面にかぶせた「ふた紙」だったからです。滲み込んだ漆が紙を腐らせず、長い間、土の中に眠らせていたのです。
 『疫病』が書かれている漆紙は、丸い形で、漆桶のふた紙だったことがよく分かります。漆が滲み込まない桶の外側が腐り、内部の漆が滲み込んだ部分が円形に残ったのです。
 ふた紙は、漆桶にかぶせたもののほか、写真のように土器の内側に付着したものもあります。右の漆紙は、漆塗りでパレットに使った土器にかぶせたものです。作業を中断して乾燥を防ぐためにかぶせたままにしたため、乾燥してしまったようです。
 
※禁無断転載
■常設展示室観覧のご案内■
開館時間 9:00~16:30
     (最終入館16:00)
入館料 一般 200円
    小・中・高校生無料
    (団体15名以上は半額料金)
休館日 毎週火曜日・年末年始
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