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古代の人々を苦しめた『疫病』

2020-03-26
 胆沢城跡で発掘された漆紙文書に、新型コロナウイルスのような流行性の悪病『疫病(えやみ)』が書かれています。今から1177年前の承和10年(843)2月26日、宮城県北にあった軍団の小田団が鎮守府胆沢城に宛てた公文書。内容は、派遣予定兵に欠員が出たため、軍団主帳(しゅちょう)の牡鹿連氏縄(おじかのむらじうじなわ)が胆沢城に出向き、事前に許可を求めたものです。伴部廣根(ともべのひろね)と宗何部刀良麿(そがべのとらまろ)が疫病にかかり派遣できなくなったことが欠員の理由で、守備兵の出発を目前にあわただしく対応したようです。
 胆沢城には、一般の兵士と勲位をもつ人から徴発された健士(けんし)がいます。一般の兵士は10日交替、廣根と刀良麿などの健士は1ヵ月交替です。健士の守備開始は3月1日、遅くとも2月晦日には胆沢城に到着する必要があります。幸い承和10年2月は大の月、文書発行の26日を含め晦日の30日まで5日、ぎりぎりの日程です。馬を利用する使者の牡鹿連氏縄と守備兵は、2月26日にあわただしく出発したものと思われます。
 
 廣根や刀良麿はどうなったのか、疫病は終息したのか。疫病に医学的対応ができない当時、巡察使の派遣や救済のために食料を支給した事例があるが、多くは仏法に救いを求める以外になかったようです。『三代実録』貞観8年(866)5月26日条に、疫病のため伊勢神宮六月祭への斎宮の参加を取りやめた記事があり、儀式などのイベント自粛も行ったようです。

 

漆紙文書(うるしがみもんじょ)
 漆紙文書はごわごわした皮のように見えますが、千年以上前の紙です。なぜ地中に残ったのでしょう。実は、乾燥やほこりを防ぐために、漆液の表面にかぶせた「ふた紙」だったからです。滲み込んだ漆が紙を腐らせず、長い間、土の中に眠らせていたのです。
 『疫病』が書かれている漆紙は、丸い形で、漆桶のふた紙だったことがよく分かります。漆が滲み込まない桶の外側が腐り、内部の漆が滲み込んだ部分が円形に残ったのです。
 ふた紙は、漆桶にかぶせたもののほか、写真のように土器の内側に付着したものもあります。右の漆紙は、漆塗りでパレットに使った土器にかぶせたものです。作業を中断して乾燥を防ぐためにかぶせたままにしたため、乾燥してしまったようです。
■常設展示室観覧のご案内■
開館時間 9:00~16:30
     (最終入館16:00)
入館料 一般 200円
    小・中・高校生無料
    (団体15名以上は半額料金)
休館日 毎週火曜日・年末年始
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