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鎮守府胆沢城正門を警固した蝦夷

2023-03-10
 国指定史跡胆沢城跡指定100周年記念特別展『鎮守府胆沢城と辺境』のなかで、鎮守府胆沢城の正門を守衛した服属蝦夷の「宇漢米公(うかめのきみ)」が衆目を集めました。昭和51年度発掘調査で出土した硯に墨書された「宇曹(うそう)」が物語るもので、国立歴史民俗博物館名誉教授平川南さんとの検証で明らかになりました。今回は、鎮守府胆沢城の辺境支配の一端も示唆する墨書「宇曹」の検証過程を紹介しながら、古代史解明の臨場感に触れてみましょう。
「宇曹」墨書硯実測図
「宇曹」の墨書
 最初に解き明かさなければならない問題は、「宇曹(うそう)」と墨書した意図です。墨書土器に書かれた「曹」の主な用例として、右表(1)の曹司・曹(曹司の略)の他、(2)の東・西・南・北+曹司・曹、(3)の式+曹、(4)の伴+曹がみえます。曹司(ぞうし)は部屋や詰所を表します。(3)は式部省曹司の略記、(4)は大伴曹司を略したものです。「大伴」は平城宮十二門のひとつ朱雀門を警備した氏族です。「宇曹」はこの「伴曹」と同じ用例で、「宇○○氏」の曹司を略したものと推測できます。
 では、「宇○○」はいったいだれなのでしょうか。該当する氏族は、陸奥国の有力蝦夷でたびたび史書に登場する「宇漢米公」しかいません。宇漢米公が史書に登場するのは宝亀元年(770)で、宇漢米公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)が本拠地に逃げ帰り城柵を攻撃すると公言したため、道嶋嶋足(みちしまのしまたり)が派遣され事情調査にあたりました。その4年後の宝亀5年(775)には、桃生城が海道の蝦夷に攻撃されています。
 この蜂起の同年には蝦夷と俘囚の入朝が停止されましたが、延暦11年(792)、夷俘の爾散南公阿波蘇(にさなのきみあわそ)と宇漢米公隠賀(うかめのきみおが)、俘囚の吉弥侯部荒嶋(きみこべのあらしま)が特に入京を許され、桓武天皇が長岡宮の朝堂院で饗応し、阿波蘇と隠賀に爵第一等、荒嶋に外従五位下が与えられました。なお、3人が上京する際、道筋の国々には壮健な軍士300騎を徴発し、国境で迎えさせて国家の威勢を示すよう命令が出されました。
 紀古佐美が率いる征討軍がアテルイに敗退した延暦8年(789)「巣伏の戦い」から3年後のことであり、征夷副将軍坂上田村麻呂が登場する延暦13年(794)の征討を前にして、陸奥の有力蝦夷を懐柔し取り込むことが目的だったとみられています。宇漢米公と爾散南公はその後、内国移配組と在地残留組に分断されますが、ともに国家側に身を置く蝦夷として特別な存在となったようです。
 さて、以上の内容を整理すると、「宇曹」の「宇」とは「宇漢米公」のことであり、硯の墨書は宇漢米公の詰める曹司の備品であることを示すために書かれたと判断できます。では、その建物はどこにあったのでしょうか。そして、宇漢米公の役割はなんだったのでしょうか。
 まず、硯の出土状況と投棄年代を検討します。硯は一部を欠損していますが、現存最大長17.8cm、幅15.7cmの大型の硯で、推定重量は凡そ759g(現存重量548.95g)、84cmの金属バットほどの重量です。出土した場所は、下図の外郭南門の前面に逆台形状の広場を造りだす外郭外溝です。南大路から外郭南門に至る橋の西側に当たります。硯の重さからして、水の流れがない外溝では投棄された原位置を留めるものと判断されます。硯が投棄された土層は、外溝の溝浚いや護岸工事後に堆積した層で、上面に十和田A火山灰が堆積しています。外溝の護岸工事に関して、『続日本後紀』には承和10年(843)に「城隍」の修理が行われていたことがみえます。一方、十和田A火山灰は、延喜15年(915)の十和田火山の噴火で降下したものです。これらを勘案すると硯が投棄された土層は843年から915年までに堆積したことになります。さらに、硯といっしょに出土した須恵器や土師器の年代が9世紀後半を示しているので、硯は9世紀後半に投棄されたと判断されます。
 硯投棄地点の周辺にある9世紀後半代の建物は、外郭南門前面の広場の東西に配置された一対の建物です。この東・西建物は胆沢城創建期にはなかったもので、外郭南門が瓦葺建物となった段階に出現しました。外郭南門と南大路を結ぶ中軸線の東西に配置されています。東建物は東西棟から南北棟に構造を替え、都合3回建替えられています。西建物は西側が未発掘で東西棟の一部しか確認されていませんが、東建物と同じ構造の建物と考えられます。東・西建物柱穴から出土した瓦や土器の年代は9世紀後半で、硯が投棄された年代と一致します。
 このことから外郭南門前面の建物が「宇曹」に該当すると思われます。ふたつの建物を指すのか、どちらか一方なのか確定できませんが、恐らくは硯投棄地点の直近にある西建物が「宇曹」であり、東建物は宇漢米公と一体的な動きをしている爾散南公が詰める「爾曹」ではないかと考えられます。
 ではなぜ、服属蝦夷の宇漢米公を胆沢城の正門に配備したのでしょう。外郭南門と「宇曹」の位置関係から想定されるのは、門の警備です。宮城の門は大伴氏など特定の氏族が警備しています。日出・日入時刻にあわせて開閉される門には衛士が立ち、出入りを厳重に管理しています。胆沢城でも兵士を配備したはずですが、9世紀前半には詰所がありませんでした。外郭南門を瓦葺きに建替えた段階で前方に詰所を設置し、しかも服属蝦夷の有力氏族に警備させたのだと推測できます。それは、蝦夷饗応の「俘饗」とともに、鎮守府による蝦夷支配を象徴的に示すものだったといえます。
外郭南門地区遺構配置図
外郭外溝堆積土層断面図
 なお、硯が出土した土層に捨てられた木簡も、外郭南門の警備に関する重要な手がかりを与えてくれます。それは右図の木簡で、下部が欠損していますが、「江郡進第三」と人名と思われる「勝成」・「全□」が判読できます。「江郡進第三」は江刺郡が「第三」を進上したことを意味します。そして、外郭南門外側の溝に捨てられていたということは、宇漢米公の詰所のある門前で木簡の役目が完結したことになります。
「第三」の用例は、平城宮跡から出土した木製の棒軸にみえます。文書を巻物にして保管する際に用いられたものですが、その芯の木口に「肥後国第三益城軍団養老七年兵士歴名帳」と書かれており、下線部は「肥後国の第三番目の軍団である益城軍団」を意味すると考えられます。この用例を援用すると江刺郡から進上された「第三」は兵士で、宇漢米公による門の守衛をサポートしていたものと推測できます。
 斉衡2年(855)には、陸奥国の情勢悪化に対し、「近城兵」の臨時徴発が行われており(『日本文徳天皇実録』斉衡2年1月27日条)、胆沢城下に正規外の軍団が組織されていたとしても不思議ではありません。
 平川南さんは、この江刺郡から進上された兵士は大伴氏だったのではないかと想定しています。大伴氏はヤマトタケル東征伝説において、副将格で随行した大伴武日(おおとものたけひ)を遠祖とする軍事氏族です。
 『日本紀略』延暦21年(802)正月11日条には、駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の10か国から浪人4,000人を胆沢城に配したことが記されています。その内の甲斐国は大伴氏との関係が深い国です。そして、表「磐井・江刺・胆沢郡の郷名」で示したように、江刺郡には甲斐国に由来する甲斐郷がありました。
 これは、胆沢城造営に駆り出され、造営後には胆沢城と城下の経営を支える移民のなかに、軍事に優れた大伴氏を戦略的に組み込んだことを物語ります。そして、9世紀後半にあっては、有力蝦夷の宇漢米公とともに鎮守府胆沢城の正門守備に就いたとみるわけです。ちなみに、胆沢郡の白河郷について、そのもとになったのは陸奥国白河郡からの移民とされますが、この白河郡にも「靫大伴」(ゆげいのおおとも)の一族が分布していました。

 40年以上も前に出土した硯に書かれていた「宇曹」の2文字から、歴史書では紐解けない鎮守府胆沢城と辺境支配の一端を明らかにできたことは、国指定史跡胆沢城跡指定100周年記念事業の大きな成果でした。

文:所長 佐久間 賢
※禁無断転載
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開館時間 9:00~16:30
     (最終入館16:00)
入館料 一般 300円
    小・中・高校生 無料
    (団体15人以上は半額料金)
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