所長のひとりごと。バックナンバー
第20回 胆沢城跡周辺の坂上田村麻呂伝承
2022-01-17

三代清水
胆沢城跡周辺には、坂上田村麻呂が延暦20(801年)に勧請、最霊(くしみたま)の石を御神体に納め、剣と鏑矢(かぶらや)を奉納したと伝わる鎮守府八幡宮のほか、三代清水、松堂毘沙門堂があります。
三代清水は胆沢城跡北西の八ツ口地内にあり、坂上田村麻呂、源頼義、源義家の三代が飲んだ清水として、この名前が付けられました。安永5(1776年)、胆沢郡上胆沢八幡村肝入の太郎兵衛が書き出した『安永風土記御用書出』は次のように伝えています。「田村将軍当国御下向の節、右清水召上がられ、其の後、頼義公義家公御下向の節も召上がられ候につき、三代清水と称し候う由、申し伝え候事」
また、仙台叢書『封内風土記(巻之19)』は「三代泉。伝えて云わく、古昔、田村麻呂・源頼義・義家共にこの泉を飲む。故に三代泉と号す。義家帰陣の時、この泉を壺中に貯め、河州壺井通法寺の井中に入れる。通法寺縁起これを記す。」と、八幡村に伝わらなかった伝承が河内源氏の菩提寺の通法寺跡(現大阪府羽曳野市)に残っていたようで、興味深いです。

本尊鋳物製毘沙門天立像と納器(右)
松堂毘沙門堂は、胆沢郡上胆沢下河原村肝入の甚右衛門が書き出した『安永風土記御用書出』で次のように紹介しています。
毘沙門堂
小名 松堂
勧請 延暦年中、田村将軍当国御下向の節、
当村へ四天の毘沙門を御勧請なられ候。
その壱つと申し伝え候事。
本尊 金仏立像 御長壱寸八分
地主 当村羽黒派明楽院
別当 明楽院
四天王のうちの多聞天(毘沙門天)を祀ったのが松堂毘沙門堂で、残りの持国天、増長天、広目天は同御用書出に見える藤五と館の観音堂、毘沙門の毘沙門堂と思われます。現本尊の毘沙門天立像は納器に収納された鋳物製の金仏で、安永風土記が記述する一寸八分(約5.45cm)と一致します。地元では、田村麻呂がまげの中に忍ばせたと語られています。現毘沙門堂境内に「奥州胆沢郡下河原村 松堂山毘沙門天由来」碑があります。

毘沙門天由来碑
<石碑銘文(意訳)> よくよく当社の由来を尋ねてみると、第五十代桓武天皇の御代、延暦十四年に田村将軍が東夷を征伐するために奥州へ向かうことがあった。しかし、攻め戦っても東夷の勢いが強く、勝利することができなかった。そこで天帝に事情を申し上げたところ、天帝は軍神として長さ一寸八分の毘沙門天を授け給われた。この毘沙門天を尊び敬い、誓いをたてて祈ったところ、ことごとく勝利することができた。東夷の首領である悪路王は近くの郡の鬼首(おにこうべ)で討ち取り、その仲間の高丸は胆沢郡の下川原村で打ち取った。そしてこの地の一本松の辺りに高丸の屍(しかばね)を埋め、その上に天帝から授かった多聞天を勧請した。広目天、持国天、増長天の三天も同村の三所にお祀りした。こうしたわけで松堂山多聞寺と称してきたのである。 |
碑文では、高丸を胆沢郡の下河原村で打ち取り、この地の一本松の辺りに屍を埋めたとします。この伝承と結びつく松の大木が、旧毘沙門堂跡の小公園にあります。松堂の地名もこの松の木に由来すると思われます。

旧毘沙門堂跡地の松
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